もはや勘弁あいならん!

魑魅魍魎が跋扈する現代社会を、独自の目線(という名の偏見)と怒りの刃で斬りまくる、ストレス発散ブログ。

表現の件。

さて、約1年ぶりのブログである。

昨年の『宇崎ちゃん』騒動以降、随分と表現問題に触れ続けてきたけれど、問題は悪化の一途を辿っていると言わざるを得ない。
当初から多くの人が懸念し、また指摘し続けてきたように、“配慮(苦笑)”を強要する輩の要求は際限なく膨らみ続け、留まるトコロを知らない。

『宇崎ちゃん』を批難するのと同じロジックで、現実のモデルさんまで攻撃し
「スカートのシワ」にまで文句をつけ
挙げ句の果てに、ただキャラクターが女子高生だというダケで、ヒステリーを起こす。
それも、『宇崎ちゃん』騒動の際に

『こういうキャラクターだったら、批難されるコトもなかった!!!!』

などと嘯き、“正しい在り方”として例示したキャラクターをヤリ玉に上げるという、節操の無さである。
「恥知らず」という言葉すら、生ぬるい。

そんな彼らが拠りドコロとしているのが、いわゆる《ポリコレ》である。
某作家崩れなどは

『《ポリコレ》があっても、面白い作品を作るコトはできる!!!』

などと、自分はできもしないコトを臆面もなく喚き散らしている。
とは言え、この主張そのものは間違いではない。
しかし、だからと言って

「《ポリコレ》がない時“よりも”面白い作品を作るコトができる」

という根拠には、全くならないのである。

「好き嫌い」「アレルギー」「思想・宗教」「予算」・・・エトセトラエトセトラ。
様々な理由で食材を制限されても、美味しい料理を作るコトはできる。
考えようによっては、それこそが「腕の見せドコロ」とも言える。
しかし、余計な制限がない場合と比べて、どちらが“より”美味しい料理を作るコトができるか。
比べるまでもないハズである。

健康指向も進み、「〇〇オフ」や「△△フリー」がもて囃されるようになって久しいけれど、だからと言って

『カラダに良くない料理を出す店は、殺人を容認している!!!!』

などと、飲食店を“焼き討ち”したり

『小麦アレルギーの人を差別している!!!!』

などと、粉モノ屋に米粉への代替を要求したりする人はいないハズである。
なぜなら、それらは全て

「提供する側の権利」

であって、私達のような消費する側に与えられているのは

「それを変えさせる権利」

などではなく


「選択する(しない)権利」

ダケだからである。
しかし実は、この権利を粛々と行使するコトこそが《自由市場》を生み出し、“お気持ち”を正しく社会に反映させるのである。
企業だって、売れないモノは作りたくないのだから。
規制派の人達は、そこを理解できていない。
というより、歪んだ捉え方をしている。
つまり

『圧力も“自由意思”だ』

という、暴力的な思考を前提としているのである。
それが如何に異常な思考であるかは、飲食店の例に照らせば実感できるハズなのだけれど、彼らには理解できない。
歪んだ“正義(苦笑)”に、囚われているからである。


こうした問題で何度も引き合いに出されるのは、タバコの規制である。
確かに、タバコは嫌煙家の声を受けるカタチで規制を強められ、分煙化・禁煙化が進められてきた。
一見すると、“お気持ち”の勝利と思われがちである。
しかしそこには、キチンとした医学的な《根拠》があり
同時に明確な《基準》が設けられている。
しかし表現の規制を叫ぶ輩は、そのどちらもマトモに明示できていない。
これでは話にならない。
そもそも

『屏風の虎に噛みつかれた』

などという“被害”のデッチ上げは、一休さんの時代で終わっている。
価値観と思考能力が、600年前で足踏みしているのではないか。

自らは何を生み出すコトもなく、ただ出来上がったモノに文句をつけ、威嚇する。
その姿は、料理の味付けが不満だと言って皿をひっくり返すモラハラ夫と、大差ないのである。
(終)


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